癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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 父が闘病を続けている間、何とか父を助けたい、どうにかして奇跡が起きないか、少しでも父を楽にしたいなど目に前にいる父のことを考え、父のことを想い、一日でも長くいて欲しいと願っていた。それだけではなく、治らないと言われても父を救う道があるのではないか、健康食品が効果を表すのではないか、気力で何とか治らないのかなど、残された可能性を探していた。一日ごとに変化する父の体調を見て「あ、今日は調子が良さそうだ」と喜び、「昨日はあんなに体調が良かったのに、どうして今日はこんなにしんどそうなのか」とその変化にも対応しきれないこともあった。
 今思い出すと、とにかく必死だったのだと思う。 そして今、父がいなくなって気づいたのは、あまりに父の病気に対して必死であったために父がいなくなったときの事を何も考えてこなかったということ。誰もがそんな最悪の事を考えて看病をしていないだろうし、どうにかして助かる道を探すものだと思う。父が人生に終止符を打つその瞬間が来ようともそれは闘病の終わりを意味するもので、「父がいなくなってしまった」その後の事までは心の準備もなければ想像もできなかった。しかし、残されたものには、この辛い事実が待っている。闘病中はどこかに、病と闘っていても父が存在するという逃げ道があるけれど、「大切な人のいない生活」は逃げる事が出来ない。
 多分私は、闘病中には辛くなかったかと聞かれると、「辛かった」と答えると思いう。しかしお父さんがいなくなって辛いですかと、聞かれるなら「悲しみから逃げられないから辛い」と答えるだろう。



、父の元気な頃の姿が浮かんでくるようになった。少し前までは父が発病をしてからの姿しか出てこなかったのに、何故だろう?急に犬の散歩に父が元気な頃に一緒によく行った公園に行ってみたくなった。少し前は「ここは父と行ったところだから、思い出して辛くなる」と避けていた。なのに、何故だろう? 恭平が元気な頃に好きだった公園に、私とジュディーとさくらだけしかいない。父も恭平も一緒にはいないのに、一緒に散歩をしている光景が目に浮かんでくる。でも前だったら車を止める事もしなかったと思う。不思議と、この日は周りの景色を見ることが出来たし、元気に走っている恭平と後ろを歩いている父の姿が想像できて、悲しみや辛さとは違った感情を持った。しかし、その感情が何かはよく判らない。
  ジュディーとさくらはとても嬉しそうに走っている。私と一緒に歩き、距離が離れると走って私の後を追う。いつもと同じ光景だけれど、なんとなく不思議な感覚になった。それは、この公園の景色は何も変わっていないこと。それだけではなく、ジュディーとさくらが公園を走る姿も変わっていない。いかにも嬉しそうに走る姿は、1年前も今も変わっていない。30分ほどその公園にいたけれどその時間が過ぎるスピードも変わっていない。それよりその時間がとてもゆっくり過ぎていくようなさえした。闘病中は何度もこの公園に来たけれど景色を見るより、愛犬の表情を見るより、父の様子が気になっていた。あまり長く散歩をすると疲れないかと、時間を気にしていた。 父が闘病を終えた後も、ジュディーやさくらの表情より、公園の景色より、時間を気にする事より、この空間、この時間に父と恭平がいない事だけに気持ちを奪われていた気がする。 この公園に来たから気がついたのか、もう気がついていたからこの公園に来たのか判らない。でもきっと、私の心の中では少し変化が出てきたのは確かだと思う。今日はあのベンチでもう少し座って、父と恭平と一緒に走ったときの事を思い出してみよう。
 

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