癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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この時茨城の弟との再会は果たす事が出来ないと確信した。再会がダメでもホスピスの部屋には直通の電話がある。茨城の弟と電話でなら話が出来るに違いない。主治医に相談をすると「是非そうしてください。耳は聞こえていますから。今それはすべきです」。ということであったので早速電話をした。父は受話器から聞こえる弟の声に目を見開き、受話器を持とうとした。驚いた。はっきり聞こえている。父は弟の声をしっかり聞いた。はっきりとした声で「おう」と答えた。「お正月まで待ってろ!!!」という弟にも「おう」と答えた。その声は今までのように兄として、威張った口調だった。私は父が最期まで父であることを誇りに思う。

父や母の兄弟が集まり父を見守っていたが夜になって安定したために皆は一旦自宅へ帰る事にした。私は落ち着かない雰囲気の中、父に「本当に良く頑張ったね。辛かったね。大変だったね。でもありがとう」と言った。それが出来たのはやはり心の中の空洞は埋まって、現実を受け入れる事が出来たと言うことなのかもしれない。

夜、食事を家族4人で済ませた。明日の夜もこうして4人で食事が出来たら良いなと普通なら思うのだろうが、正直言ってこの時の私の気持ちは「これは家族での最期の食事になっても後悔の残らないように明るく、今までのように食卓を囲もう」というものだった。たとえ父が食べる事が出来なくても今ここにいる4人が父の大切な家族なのだから。
夜は弟と私が父の部屋で父を見守る事になった。夜中、私は恭平を思い出していた。恭平は最期の2日間、苦しんだので仏壇と恭平の遺骨に「父が楽に、苦しまないように最期を迎える事が出来るように」とお願いをしていたことを考えていた。朝4:00頃から父のベッドに一緒に座り安らかに眠っている父をさすっていた。母も部屋に来て父を家族だけで見守る時間が静けさと共に過ぎていく。そしてAM4:55、父の鼓動は止まった。父を呼び、揺り起こしたが心臓は止まっている。もう一度父を呼んだ。「起きて、お願い」しかし反応は無い。静かに安らかにそして平和な顔をして眠っている。時計を見ると5:00だった。その瞬間の様子は恭平の時と全く同じで、そして鼓動が止まった時間とそれを確認した時計の時刻も同じだった。

お迎えが来るまでの間、士長さんと少しお話をすることが出来た。「本当によく頑張られました。弱音を絶対に吐かず痛みにも耐え、立派なお父様でした。あなたは本当に一生懸命お父様を支えられ、お父様もあなたを頼りにしておられた事は本当に素晴らしいかったです」と言ってくださった。私は「私を支えてくださったから、父を支える事が出来ました」とお礼を言わせてもらった。

家族で父の体を拭きパジャマからお気に入りの服に着替えさせ、1ヶ月半過ごした部屋から1階にある部屋に移った。そこではお世話になった看護士さん達が一人ずつ父に言葉をかけお別れをしに来てくれた。「とてもいいお顔をされていますね」「笑っているようですね」「よく頑張られました」など一人一人の思いを父に伝えてくれた。この日から3日お休みになるのでお会いするのが最期になるかもしれないと言っていた父の担当の看護士さんが、お休みにもかかわらず父に会いに来てくれた。前の夜「又会えると言って欲しい」と私が言うと「お会いできると言いのですが」と言い残したのだがお別れには来てくれた。
看護士さん、主治医、ボランティアの方達の挨拶が全て終わると、とうとう父はホスピスを出発をした。車が見えなくなるまで玄関の外で全員で見送ってくれた。12月にしては温かい日だったがそれでも外は寒い。それでも誰一人戻っていく事はなく、最期まで見送ってくれた。その見送ってくださる方達の数の多さに、父は、私は本当に多くの人たちに支えられ、助けられて来たのだと実感した。

涙を浮かべてくれた主治医、看護士さん、ありがとうございました。私達は頑張りました。そしてその私達を支えてくださったからこそ力の限りに父を支えることが出来ました。安らかに父が旅立ち、笑っているような顔であったのはその皆さんの力、応援、支えがあったからこそです。感謝と言う気持ちはこんなに素晴らしいものであると教えてくださってありがとう。
 

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