癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

HOME 闘病記 がんと闘う父の記録 序章 1

  2002年夏。父の友人を招いて自宅でバーベキューをした。その準備の段階で父は少し動くと座り込み、疲れた表情を見せる。いやな予感が私を襲った。基本的に健康で疲れ知らずの人間だったためだ。 その少し後、食事の好みが変わってきた。辛いものは食べたがらない。  
 2002年、夏の終わり。今までより夏バテがひどい。父も年を取ったせいだろうか?しかし、父は自分の体調の異変よりも仕事の忙しさを優先にした。そんな父に「もう若くはないし、無理をしない方がいい」と言ってみた。大体私の意見を素直に「心配してくれてありがとう」なんて言うはずもない。もしそう言われたら私はきっと慌てて救急車を呼ぶだろう。
 2002年11月。便秘をしていると言う。今まで恐ろしく規則正しい排便をしていたのに急に何だろう?と思う。そして、夏のバーベキューのいやな予感を思い出し「病院」を薦めるが、仕事が忙しいことを理由に行かない。便秘薬を試すが効果なし。
 12月初め、黒い便が出ると私に言う。ゾッとした。11月中頃かららしい。便秘とだけしか聞いていなかったのでその事を聞かなかったことに後悔を感じる。病院へ引っ張ってでも連れて行きたいと思うけど、親会社の忘年会に出席せねばならず、仕事も忙しいからいけないと言い張る。ならば忘年会だけでも断るべきだと私の主張は見事に却下された。くどいようだが「お前の結言うとおりだ。病院へ行こう」なんて素直に答えた時には私は救急車を呼ぶだろう。それどころか、「忘年会では朝まで飲んだ」と丈夫さをアピール。
   忘年会を無事済ませたがその後父の様態は悪化。痛みが出て、顔色も青白くなった。仕事も一息つけそうだという矢先、仕事から帰宅したが車から降りられない程ぐったりとしてしまった。
 2002年12月14日。 病院へ。自分でも体調が悪いことは否定できず、一体どうして黒い便が出るのか、どうして便秘をするのか、体がだるいのかをはっきりさせたいと言った。本来血圧が高いので定期的に通っている病院で診察を受けた。胃カメラ検査をする事になり検査予約をして帰って来た。その検査は12月19日。が、その数日の間に痛みは増してくる。体力も急激に落ちた。検査の日にちを早め、痛み止めをする等の対処をしたほうがいいと父に言うけど、律儀な性格が邪魔をして「医者がその日でいいと言ったんだ」とこれも拒否された。
 結局12月19日、胃カメラとエコーの検査をし、紹介状と一緒に帰ってきた。「ひどい胃潰瘍が出来ているが、この病院では施設が整っていないために大きな病院を紹介する、と言われ近所の総合病院を紹介してもらった。それにしても驚いた。胃から出血をしていて潰瘍も胃全体に出来ている。カメラの写真を見ただけでゾッとした」と紹介状をもらった理由を話した。そんな状態になるまで我慢をしていたのか。やっと病院へ行ったと思う反面、遅すぎたのかもといういやな予感が私を支配した。 ふと見ると、父は自分の体調が悪い原因が判って安心したような様子だった。胃潰瘍なら、直ぐ手術をすれば良くなる、とも言った。 実際に胃潰瘍の場合、手術をするのかどうかなど専門的な知識があったわけではなく、ただ自分が勝手に判断をし、病気が治ると想像をして安心を得ている様子だった。 このときすでに車の運転も、診察を待つことも難しいように思われ、明日は私が病院へ連れて行くと言うと、以外にあっさり「判った」と言う。やばい。
   12月20日。すでに痛み止めは効かない。友人のご主人が歯科医師でひどい痛みには結構効くと聞いていた歯科医が処方する鎮痛剤を臨時に飲んでもらった。やはりかなり効いたらしい。本当は良くないことだがこの際仕方が無い。が、痛みは取れても疲れた表情と、しんどそうな歩き方に気づき、病状は私の想像より深刻なのかと思う。やはり最悪の場合は癌であると、心の準備をしておいたほうがいいかとも思う。そうやって、心の準備をしようと思えば思うほど、心臓が鼓動を早める。そんな弱気ではいけない。何があっても平常を装うように自分に言い聞かせた。
  診察では若いが印象のよい先生だった。紹介状と、同封されていたカメラとエコーの写真を広げ、「とてもひどい潰瘍ですね。とりあえず入院して検査をしてもらいますが、年末ということもあり、入院は来年になります。今日はレントゲンと血液検査だけします。娘さんにはその間僕から入院の説明をします」と言った。父は「胃潰瘍ですか」と驚いた。本当は「癌なのでは」と、聞きたかったのかもしれないが、その質問をすることは、決定的すぎて、聞く事は怖い。私も同じ気持ちだった。
  看護師さんが父を検査に連れて行ったその直後、医師は 「胃がんです。肝臓転移もあり、今年のお正月が最後になるでしょう。そのため最後のお正月を家族で過ごせるよう入院は来年にしました。お父様に告知をするかは来年あなたと相談しましょう。」と宣告された。いやな予感は適中するものだと思ったが、私の予測をはるか超えたもので余命の宣告までは想像もしていなかった。
  その後は、いかに涙を父に見せずに普通の態度で接するか?それはしばらくの間私を苦しめた。その苦しみを予測するかのように、父は検査の合間に「癌と言われなかったか?俺は来年釣りにいけたらそれで後はいい」とつぶやいた。
  正直に伝えることに抵抗がないと言ったら嘘になるが伝えないのも嘘になる。正直に言うと、実はこの時からしばらくの間、父の葬儀を行っているイメージが私の頭に浮かんでしまうようになった。振り払ってもどうしても浮かんでくる。私は何時これが事実になるのか恐怖に包まれその度に涙を流す場所を探していた。
  父は胃カメラの写真を見て「これでは助からないだろう、と思った。でも、胃潰瘍なら直ぐに良くなる」と、病院でランチをしたレストランで言う。感じていた不安が取り除かれたようでもあるが、実はそう自分に言い聞かせているのだろう。

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