癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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 自分の容態や状態に不安になる時間と、苦痛を取り除いて穏やかに過ごせる時間と同じ時間ならやはり、後者を選びたいと思う。 ガンセンターで治療が出来たということを父はとても良かったと思っている。「ここは最高だ。最高の医療が受けられる」と看護師長さんに話したことがある。ガンセンターで告知をされたから「ひどい」と言う患者さんは私が知る限りではいなかった。どちらかというと告知を乗り越える事から全てが始まっているような気がする。薬剤師さんもとても勉強されていて抗がん剤や痛み止めに関しても親身に相談に乗ってくれる。特にモルヒネ系のお薬は私も抵抗があったのだがこの薬剤師さんに色々教わり、痛みを緩和する事の必要性を教わった。又、KK主治医も某ガンセンターで勉強をされてきて、その経験や知識を生かした治療を私たちは信頼していた。それに全てを任せる立場としては心強い。父も今でもKK主治医のことを気にしているぐらいだ。看護師さんたちも教育がされているし本当によくここまで面倒を看てくれると頭が下がる。こういった環境で治療を受けることは後悔を残さない意味でも大変重要だと思うし、父は恵まれていたと思う。
 しかし、他の病院については判らないが、ガンセンターでは患者が危ない状態になると個室へ移る事になる。患者さんたちの間でもこの事は知っていて恐怖を感じている。身内ももちろん恐怖を感じている。父も個室へ移る時に泣いた。「もうダメなんだ」と。事実は頼んであった個室が空いたのでお引越しだったのだが、そんなことを知らないので勘違いをしてショックを受けた。それほど精神的にはしんどいものがある。 それに、安らかな死を迎えるには、環境としては厳しいと言える。 プライバシーの確保も非常に難しい。ガンセンターの場合は個室に入りたくても部屋の空を待たなくてはならなくて、結局3回の入院で1回だけしか個室に入れなかった。最初から最期まで個室にいたとしても経済的に負担になるのは否定できない。
 父のように残された時間が少ない場合は特に家族と過ごす時間は貴重だし、様々な不安が出てきても家族に甘えたいと思っても家族とのそういう時間を過ごす事はここでは難しいかもしれない。
 看護師さんたちは多くの患者さんを抱え、走り回っている。一人一人の患者さんに時間をかけた看護をしたくても出来ないのが実情だと思う。
 なにより治療をしないと決めたら、治療をするための病院に入院をしているわけにはいかない。退院をして具合が悪くなったら外来で来るか、もしくはひどい状態なら救急車で運ばれる。父も最初はこの方法を取りたいと思っていたようだ。しかし、ここまで整った環境で治療を受けてきたので自宅で生活する事は不安を感じる。夜中に何かあったら?急な痛みが出たら?等。治療をしないとなれば状態は悪化していく。痛みや苦痛を取り除いて欲しいと願う気持ちは症状が末期になればなる程強くなってくるに違いない。私も、嘔吐したり、痛みが出たり、もっと悪化して歩けなくなったときのことを考えると、父を満足に自宅で看護できる自信は無かった。
  結局、病院とは治療をする所で、治療をしない人の癌の症状を取り除くということに関しては多くを望めない。そして治療をする環境としては素晴らしいが、治療をしない患者がのんびり過ごすことは望めない。特に父のように目を伏せたくなる「死」という問題に直面してくると、やはり治療をしていた時以上に病状と精神的なことに対する看護、介護、介抱、は必要になってくる。この矛盾を埋めるのはやはりホスピスで緩和ケアを受けることにあるのではないだろうか?そして父にはホスピスを薦めた。父は納得しホスピスへの転院を決意した。
 この父の決意は、告知を受け、事実を自分で把握しているからできた決心だと思っている。癌と知って、治療を自分で選択し、今の自分でできる限りの事をし、与えられた時間を自分らしく生きていくためにホスピスへ移った。やはり、今考えてもホスピスは告知から始まっている。
 そして、KK主治医になってから父は一度も余命宣告を受けていない。父は自分の天寿をまっとうするだろう。
 

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