癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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  恭平が亡くなってから私はどんな風に生活をしていたのか覚えが無い。かなり落ち込み、日を増すごとに恭平がいない寂しさがこみ上げてくる。母が父に付き添っていてくれたので、ガンセンターの父の元へ行かなかった。と言うより、行けるような精神状態ではなかった。
ホスピスの診察や予約などが必要だったため10月21日ホスピスで診察をして、入院の予約を申し込んできた。見学も出来るというので見せて頂いた。中庭に芝がある。ここで犬を散歩させる事はできますね?と聞くと担当の方は「一緒に住んでもらってもいいですよ」と言う。驚いた。入院した部屋では自宅と出来る限り同じ条件を再現して少しでも落ち着いて生活が出来るようにしてもらいたい、ということで、中にはホスピスの部屋から出勤される方もみえるという。
私は父の闘病生活を振り返っていた。毎日癌との闘いで癌に関わる事は頭から離れず、一時期旅行が出来るほどになった体調がもう一度戻るはずであると、すがるように生きてきた。抗がん剤で苦しみ、動けなくなった自分の体とこの先を悲観し「俺はもうダメだ」と号泣した事もあった。少し体調が良くなっても痛みに襲われ、痛みと苦しみ、そして一番やっかいな不安との日々を過ごした。安らぎという言葉があるが、一体それはどんな事なのだろう。生きているということは、一体どういうことなのだろう?
父はある日「腹の奥で誰かが「まだ死ねない」といわれた」と言う。それは父が6歳の時に亡くなった父親ではないかと思ったらしい。このときは抗がん剤の副作用で苦しく不安で仕方が無く、こんな思いをするならいっそ死んでしまいたいと思ったその瞬間にその言葉を発した「誰か」が出てきたらしい。私に泣いて「俺はまだ死ねないんだ」と言った。私は言葉を失った。完治が無いとわかっていながら、治るために努力をしてきたが、それは苦しみ、絶望、恐怖、不安、果てしの無い闘いを生んだ。この女性の後姿にはそういったものは感じられない。ゆっくりと流れる時間と表現するが、この時この瞬間はゆっくりと時が流れている気がした。父にもこの時間を過ごしてもらいたい。それは諦めでもなく、生を放棄したわけでもない。生きているこの時間をこの今と言う時間をもっと貴重なものにしたいと思った。
考えれば恭平には「少しでも楽になるように、私が少しでも長く抱っこをしていられるように」と願った。その願いどおり、私の時間の許す限り抱きしめ、語りかけ、恭平をなぜた。嬉しそうに尻尾を振る恭平をいとおしく感じ、その恭平の嬉しそうな表情に私も心が穏やかになったことを覚えている。父ともそんな時間を過ごすべきだろうと思う。
 「死んでしまいたい」ほど辛い時間を過ごすより「生きている」という事を実感し、辛く無い時間を自分らしく生きて欲しい。
 ホスピスで入院の予約は取ったものの、何時になったら入院できるかは判らない。しかしガンセンターも治療をしないと決めたのならこのまま入院しているわけにはいかないらしい。そのためホスピスへ転院するまでの間、受け入れてくれる病院を探して転院するか、自宅に戻るかを決めてくれと担当の看護師さんから言われた。
この頃には自宅で介護が出来るように手配が整っていたので、父にホスピスに転院が決まるまでの間、家に戻らないかと父に相談をした。しかし家には戻りたないという。いつ何時痛みが出るか判らない、というのが理由だった。家族を夜中に起こしたり、薬を取りに病院へ走るなど、迷惑をかけたくないのだろう。その父の気持ちが判ったし、無理に父を自宅へ戻して父が遠慮をしたために辛い時間を過ごすことになるよりは受け入れ先の病院を探すことにした。
 

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