癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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 父は、まだ一時帰宅の書類も書いていないのに家に帰る準備をし始めた。よほど帰りたかったのか可愛そうになったが、私がこの時に父を家に連れて帰れた事は良かったと思う。もし、私がいなかったらずっと父はそういう気持ちを抱えて病院のベッドの上で涙を我慢していただろう。
 病院の皆さんの理解のお陰で父は我侭な帰宅をし、愛犬と再会した。1泊で病院に戻らないといけないが、それでも涙を流すほど帰りたいのに帰れないよりは、余程ましだ。今後の事は又、考えるとして今は父を温かくいつものように自宅で過ごさせてあげたい。
 12日の夕方病院に戻る前に、おかゆが食べたいと言う。そしておかゆを食べた。半分以上残したが、食べたいという気持ちと食べれたという満足感を今は大切にすべきだと感じた。そして病院へ戻る途中でスーパーに寄りたいという。これから又続く闘病生活の為に自分の食べたいものを買いだめして、少しでも病院でも生活を快適にしたいらしい。自宅で過ごして少し気分も変わり、前向きな気持ちが出てきたようだ。病室についてパジャマに着替えても、神妙な顔は見せず「明日は来なくていいからな」と捨て台詞を残した。くそオヤジである。
 この日私はなんとなく喉がイガイガしていて体調が悪かった。家に戻るとどっと疲れが出て熱が出た。体中が痛くて、熱も高くなってしまった。翌日、母も夏バテで病院に行けそうに無い。母は病院に電話をしてその旨を伝えると父から電話がかかってきた。「タクシーに乗って病院へ行け」と私を気遣ったらしい。元気な頃の父は心配を口にする人ではなかったし、「風邪は病気のうちに入らない」と喝を入れるような人なので、心配をされると不思議になる。
翌日も父から電話があり「タクシーで夕飯を買って家に届ける」と言い出した。これはただ事ではない。それだけ心配だったと言う事なのだろうがそれにしても気味が悪い。ここ数ヶ月の間自分が心配をされるのが当たり前で、ある程度の我侭も言うようになった。きっと自分の事で頭が一杯だったに違いない。しかし私が病気をしたことで、父は自分が私や母に苦労をかけたと気づいたのではないだろうか。自分らしさを失っていたことにも気づいたのだろう。一家の主として私の父として、あまりに弱く、情けない自分を奮い立たせたに違いない。本来がそういう性格で、弱い部分を他人に見せるなど絶対にしない人だ。我に返ったというのが適切な表現だろうか? 父は「自分の事は心配するな。欲しいものは全て売店で揃うし不便は無い。それより病院へ行って点滴をして来い」と繰り返した。病気になる前の父の口調が戻っていた。
 結局その後、5日間、私は病院へ行かず母か弟が、病院へ行き、父の発病以来、休暇をとることが出来た。今までどれだけ疲れていたのだろ?眠っても眠っても、夢も見ずに眠れる。熱の高い時「父はもっと体がしんどいのかもしれない」と感じて、父の長い闘病はいかに辛いのかとも思った。いつもなら少々無理をしてでも病院へ行っただろうけれど、もう少しゆっくりと自分の体を休め、新たな気分で看病をしたいと思った。
 15日は2回目の抗がん剤の点滴。無事済ませたと連絡があった。本人は15日に抗がん剤の点滴を済ませて直ぐに退院をするつもりでいた。しかし母が主治医から聞いた話では、副作用が落ち着いてから退院の予定で、来週中は一時帰宅をはさんで様子をみるつもりでいたらしい。それに私も退院は認めなかった。一番副作用の出やすいときでまだ咳が直っていない私の風邪が移ってもいけない。第一そんな時に家に帰ってきても適切な対応が出来ないと思ったからである。
 18日病院へ行くと、父は今日、退院だという。私はそんな事は聞いていないので看護師さんに確認を取ると一時帰宅は許可されたが、退院はもう少し先だという。どうやら、父は誰が何を言おうと、今日退院をするつもりらしい。結局相談をして、退院の手続きを明日して、今日家に戻るということになった。どうやらそこまで退院したかったのは、新しく入った入院患者さんのいびきがうるさくイライラしてしまうかららしい。結局退院し、自宅にいる。
 この日、師長さんに退院のお願いをするために話をしていると「昨日はお父さんと色々お話をしました」と言う。そして「釣りの話や、車の話等、色々とお父さんとお話をして、お嬢さんの事を何度も何度も私に話されました」と会話の内容を教えてくれた。私は驚いて「私の事を言っていましたか?」と聞くとその内容を教えてくれた。「自分をがん患者として扱うのではなく、なんでもしたい事、行きたいところへ行かせてくれたし連れて行ってもくれた。自分を自由にさせてくれた事は、とてもよかった。そして何より釣りへ連れて行ってくれたことはとても嬉しかった、とおっしゃって、娘さんにはとても感謝をしているご様子が伝わってきました。長い時間お話をしましたがその話の間に何度も『娘が』と言われていましたし、ご自分の大好きな釣りへ行けた事は自信にもなったご様子です」と詳しく教えてくれた。私は自分の耳を疑った。私には一言もそんな事は言った事が無い。確かに出来る事、行ける所へは何処へでも行かせた。母は、どこかで倒れるといけないと、反対をした。しかし私は「少しぐらいは大丈夫」と気楽に構えるようにしていたのは事実だったし、何処へでも行きたい所へは行って欲しかった。そして私の行くところは何処へでもついて来た。 しかし父がそんな風に思っているとは知らなかった。もし父が私にそのことを直接伝えて、御礼でも言ったりしたら、かなりやばいと覚悟を決めるだろう。そういう性格だからこの師長さんがこのことを教えてくれなければ、一生父の気持ちを知らずに過ぎていたかもしれない。
  師長さんには父の話し相手になってくれた事はもとより、その会話を私にそっと教えてくれた事に感謝している。 そうそう、私が毎回、病院に運んでいくお水が一番美味しいとも言っていたそうだ。

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