癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

HOME 闘病記 がんと闘う父の記録 序章 3

 

 私は父を医大病院へ移すことを父に相談せず勝手に決心した。その理由は色々あるが一番は痛みを取ってもらうためである。治らない病気だからといって、何も治療をしないと言う事は間違っている。それに痛みを我慢して最後のお正月を自宅で過ごすと言うことには大きな意味を見出せなかった。痛みが取り除かれる事が優先されるべきではないだろうか。治らない病気だからこそ、痛みや苦痛を取り除く治療は必要だと思う。 しかし、父は医大病院で診察を受けるには紹介状が必要で、簡単には診察を受ける事ができないと思っている。友人のお兄さんがこの医大病院の医師なので相談をしてみるとやはり紹介状があったほうがいいということだった。その紹介状をもらうには血圧でかかっていた病院で、もう一度紹介状を書いてもらう必要がある。連絡をしてみるとこの医師は私から逃げた。当然だ。何度も通っていたし、わき腹に痛みがあるのを訴えていた。それなのに父の病気を見つけるどころか、「全然なんとも無い。健康そのもの」と見逃したのだ。責められるのは当然のことで父も母も私もこの医師に対し憎しみすら抱いていて頭を下げてお願いするより怒りをぶつけても不思議ではない。しかし恨んでいて前に進めるだろうか?「憎しみからは何も生まれない。許すことからなら生まれる」ではないか?そして憎しみを許しの気持ちに変え(正直憎しみは消えていない)「父はずっとあなたを信頼してきた。だから逃げずに紹介状を書いてほしい」とお願いした。
 すると医師は態度を変え「すぐに取りに来てください。今から書きます」と言った。悔しかった。本当に悔しかった。紹介状を握り締めて自宅へ変える途中、悔し涙が流れてしまった。
 家に戻り母と、父をどうやって大学病院へ連れて行くのか相談した。頑固な父は自分が決めたことには忠実だが、他人が決めたことには素直に納得は従う事はしない。きっと「病院を変える必要は無い。どこでも同じだ」と言い返すに違いない。それに父が自分の病状が深刻だと疑いを持つかもしれないし、それは避けたかった。別に住んでいる私の弟にも相談し父を説得することにした。母が翌朝、おかゆを運びそのついでに父に「大学病院へ変わろう」と言ってみたが、やはり「紹介状が無いから簡単には見てもらえない。何処の病院でも同じだ」との答えだったらしい。母は「M子(私)が昨日もらってきたから心配ない」と伝えると父はとても安心をし、今まで痛みでゆがんでいた顔がほころんだという。でも弟の力を借りるまでもなかったのが恐ろしくもあった。
そして告知のことだが、母や弟に本当のことを話すべきか随分悩んだ。父にも癌であると宣告するのか迷った。しかし、入院をしたら辛い検査や治療が待っているに違いない。それに痛みで苦しんでいるところに"ガン"とトドメをさすような気がする。お正月を暗く過ごすより来年に検査が始まってからでもいいのではないか?つらいお正月は、私一人で十分だ。と、家族には隠す方へ考えが傾いていく。しかし、嘘をつくという時の辛さは半端なものではない。正直言ってこのままずっと黙っている事は不可能に近いだろう。嘘をつくたびに自分のしていることに対して疑問をもつだろうし、何かを聞かれても平然と嘘をつくには演技力も必要に違いない。 結局は黙り通すならバレナイという絶対の自信が必要で、バレそうと思うなら最初から真実を言うべきなのかもしれない。周りに対し患者が疑問を持つとそれは不安へと広がる。不安を感じさせるような中途半端な嘘ならつくべきではない。

 2002年12月24日。この日父を医大病院へ連れて行く。受付をしてから診察までに時間がかかるため、いつものように私が気を回して「車で待っていて」と言おうとするより前に「俺は診察の時間まで車で待つ」と言った。よほど辛いのだろう。父の顔を見ると涙があふれる。トイレで涙を拭いて窓口へ。そこで「告知はしない事と、とにかく痛みを取るために入院をさせて欲しい、と先生に伝えて下さい」と受付の女性に頼むと、「お父様の診察の前にこっそり先生とのお時間を作ります」と配慮してくれた。又、診察の間待つのはしんどい為ベッドも用意してくれた。
 そのベッドの横で私は父と病気とは関係ない話をするようにした。横たわる父を見るとそれだけで泣けてしまうので自分を誤魔化すためにも病気以外の会話は必要だった。が、こんな状態になっても「こんなところで寝ている場合ではない。仕事がある」と言う。「出来ない」と出かかった言葉を飲み込んで「良くなったらね」と答えた。ここでの会話はこれくらいしか覚えが無いけれど、父とは初めて穏やかな時間を持てた気がする。いつも仕事でストレスを溜め、気を張って会社を、家庭を守ってきた。私も父の会社で働いていたため、仕事上の会話がほとんどで衝突をした事も何度もある。そして笑いながら会話をするような親子関係でもない。本人も朗らかな性格ではないし、冗談を言って笑わすなんてサービス精神は持ち合わせていない。しかし気丈であり健康で律儀で、きちんとした性格だと思う。少々頑固でもあるが。その父としての立場を守るため、娘に心配をさせないため、自分自身を励ますため「すぐに元気になって仕事に復帰する」と言っているようだった。私も父に対し、少しでも楽になれるようにという気持ちで父と会話していた。お互いが父親と娘との関係を取り戻し、愛情を持って会話をした、そういう時間を取り戻したという気がした。

  父の診察の前に私は先生(SM医師)に会い「告知を今はしないで欲しい。胃カメラの写真を父に見せないで欲しい。今すぐ入院をし、痛みをとる治療をして欲しい」とお願いをした。「一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。この言葉は今も私を励ましてくれる。それに始めて告知を受けてから気を張っていたし、一人で嘘をつきとおしてきたためか涙があふれてしまった。発病以来、人前で涙を見せるのは初めてだ。
 そして父の診察のとき父は気丈なところを見せ、「このまま帰すわけにはいきません。入院してください。いいですか?」とのSM先生の問いに、「私は帰ってもいいが、娘が何度も私を車で乗せてくるのは大変だからお願いします」なんて言う。私のせいにするなと思ったが「いつもの強がる父の力は残っている」と感じた。そして胃カメラの写真を先生が見たのかをSM先生に聞いた。本人はかなりあの写真を気にしている。見ると恐ろしくなると言いながら、やなり気になるのだろろう。しかし、SM先生は私との約束を守り、父には写真を見せなかった。父はポツリと「あの写真にはショックを受けました」と言った。やはり今は見ないほうがいいと思う。
 入院する部屋に案内され、私は父を部屋に残して入院の手続きをしに行った。再度部屋に戻ると、父の顔は明るく力を取り戻した表情に変わっている。その顔を見て、「あ、安心したのだ。痛みや、苦しみを取り除くための治療がやっと受けられるからだ」そう感じた。その顔を見て、よくここまで我慢した。痛いとも苦しいとも言わずによく耐えた。そう思った。涙はもうそこまで来ている。が、我慢。父の手荷物を用意するため家に戻ると、「どうだった?」と母が聞く。何も答えられない。涙が言葉より先だった。安心と嬉し涙である。そして発病以来始めて母の前で見せた涙でもある。
 悲しい涙を数日間我慢していた私は、溜まっていた涙が安心と喜びの涙に姿を変え一気にあふれ出た。そしてやっと出てきた言葉は「お父さん、ものすごく安心した顔をしてくれた」だった。
 母も、同じように喜んだ。「痛くて苦しんだけれどやっと治療をして痛みから解放される」と、私と同じ思いを語った。

 3時間後母と一緒に手荷物を運びに行った。「痛みは無くなった。安心しろ」と、とても穏やかな顔をして言った。それだけなら可愛いのだが、「荷物を置いたら帰れ。毎日は来なくていいからな」と付け加えた。クソおやじである。
 「毎日なんて来るわけないじゃない。元気そうだもん」と言いながら、いつもの父の口調に安心もできた。
 帰り道、遅めの夕飯を取るため近所のおすし屋に入った。お客は私と母だけ。どうしてなのだろう?と思いながらカウンターを見るとサンタクロースがダンスをしている。何でかな?リースも点滅している。
あ、そうだ、今日はクリスマス・イブだ。忘れていた時間の感覚を取り戻したような感じだった。

 夜、イブを愛犬達と母と過ごした。一日も早く父が楽になりますように。そして病室で一人の父にメリー・クリスマス

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