癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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  私は、自宅で日ごと悪化していく恭平の看護に一生懸命だった。恭平は一生懸命生きようとし、私が見えなくなると私を目で追う。私が見えなくなると必死になって探す。この頃殆ど寝たきりだったので、私が恭平の視界に入るようにして「ここにいるから。一緒にいるから」と励ます。恭平は、安心して目を閉じる。 そんな恭平の姿と、父の姿は嫌でもダブってしまう。父も寂しいに違いない。不安であるに違いない。しかし、ここまで一生懸命に恭平の看病をできるのも父の看病を経験したからであると思う。見ているだけで辛くなるような恭平の姿を、目をそらさず正面から受け入れて看病をするという事は簡単な事ではない。父が発病をしたときがそうだった。目を背けたくなり、見ないふりをしたかった。 父のため、恭平のため、それは自分の家族なのだから、私は家族として出来る限りの事を自分が出来ることをやっていきたい。
 恭平の看護を続けながらホスピスの予約を取り在宅介護についても何処まで可能かを調べた。その時に色々と相談にのってくれたケア・マネージャーをしている方が、ガンセンターの近くが自宅なので、仕事の帰りに父を見舞ってくれるという。普通はそういうことはしないらしいが、自宅が近いのでどうせ話をするなら病院で、と言ってくれて、父との面会が実現した。仕事場は私の自宅の近くだったが、そういう偶然を私は素直に喜んだ。
 父はその方に「もう死ぬほどの思いをして抗がん剤治療をするのは嫌だ。一日でも元気に長生きをしたい」と言った。この方は元看護師さんであったらしく、自分の経験からも父の思いは理解が出来ると話した。そして「そうしましょうよ。一日でも元気で長生きしましょうよ。出来る限りの事はお手伝いしますから」と言ってくれた。こういう方と知り合えた父は幸せであると思う。
 父が取り乱した朝、母から父の様子を聞いた時には、死を意識した父はもう立ち直れないのかと私自身も落ち込んだ。しかし、母の付き添いと、同じ部屋の方たちの励ましで随分と立ち直った。「一日でも長く元気でいたい」と自分の死を見つめてその上で今後の自分の将来に対する希望を父の口から聞けるとは想像をしていなかった。ケアマネージャーさんが「今まで治療が辛かったから、これからは辛くない人生を送りましょう」と言い残した言葉は私には重みがあった。私自身も父の看病で辛い事が多かった。しかし、これからは辛い治療に耐える父ではなく、辛くない父と過ごしたい。そして一日でも長生きをして欲しい。
 父が気分転換に家に一時帰宅をしたいと言っていると母から連絡があった。家に帰ると私の看護が必要となるが、恭平はこの時歩くことが困難で、体重減少が著しかった。おトイレも自力では無理だったために恭平には全面的な看護が必要でもあった。家で恭平の看護をしている私を見ることと、やせ細った恭平の姿を父に見せる事が正しいのか私は悩んだ。私は父の姿と恭平の姿が時々重なって見ていたし、父が恭平を見たら、同じように自分の姿と重ねてしまい不安になるのではないかという心配もあった。せっかく父が立ち直りかけているのに、又落ち込むことになってはいけない。実は父には恭平がこんなに悪化しているとは伝えていなかった。しかし、父に全てを話し、父自身に自宅に帰りたいかどうかを決めてもらうことにした。
 恭平の状態を聞いた父は泣きながら「そんな弱った恭平を見るのは嫌だから、ここ(ガンセンター)で頑張る」と言った。「恭平に自分も頑張るから、頑張れと伝えてくれ」と言い、強く口を閉じた。その父の姿を忘れることは無いだろう。 恭平は、10月18日私の腕の中で天国へ旅立った。亡くなる前2日ほどとても苦しんだが、私はどうにもできなかった。人は無力である。恭平には「助けることが出来なくてごめん」と謝るしかなかった。 死とはとても苦しく辛く、孤独である。そしてだれにでもやってきて避けられないということ。又、後悔は人を苦しめるという事。そんなことを恭平を見つめると感じる。 今までは父の病気が少しでも良くなるようにと、頑張ってきた。父もそうだ。でも治療をしないと決めた今から先は、避けられない事があるのだと認めて、後悔しないほどに父の看病をしなければならない。自分のため、父のために。 父の記憶には今でも恭平が元気な頃の姿しか残っていない。
 

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