癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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 私は生まれたときから家に犬がいた。父がシェパードと日本スピッツを飼っていて、写真も残されている。ジョンと太郎という2匹の犬は私の記憶には無いけれど、確かに飼っていた。その後、小学生の時に父がテリアと雑種のミックスの生まれて2ヶ月ほどの子犬を突然家に連れてきた。その時の父の嬉しそうな顔は子供ながらに覚えている。どうして父が嬉しそうだったのかは判らないが、きっと私と弟がとても喜んだからだと思う。母は犬が嫌いであったため、私と弟が面倒を見るという条件で飼うことを母は許した。ありきたりのポチという名前をつけた。学校から帰り真っ先に行くところはポチの所で、近所のお友達と遊ぶときもいつも一緒だったし私になついていた。放し飼いをしても逃げる事も無かったし、いつも私の 兄弟のように私の横にいた。母の言うことは聞かなくても、私が「ポチ!」と呼ぶときちんと私のところへ来る。可愛かったというよりは、頼れる兄貴みたいな存在だった感じがする。その後、小学6年になると同時に引越しをし、中学になったある日知らない叔母さんがマルチーズの子犬を連れて家にやってきた。この人は遠い親戚になるらしく母がこの人の家を訪ねた時に生まれて直ぐのマルチーズがいたらしい。その子を見て可愛いと母が言ったためにこの親戚はうちに連れてきて飼ってほしいと訪ねて来たのだった。もちろん私たちは大賛成。しかし、本来犬の嫌いな母は家の中で犬を飼うなんて絶対に嫌だと反対した。しかしわざわざ連れてきた人を目の前にそう大げさに反対も出来ないし、手のひらサイズのマルチーズを見る
なら心もぐらついたのだろう。小指ほどのシッポを振りまくり愛嬌のいいこのマルチーズは結局我が家の一員となった。すでにナナと名前がついていたのでそのままナナという名前にした。父は大変可愛がり、そして仕事にこのナナを連れて行くほどだった。ナナは父を一番慕うようになり寝るときも一緒に父と寝ていた。ナナは抱っこが出来るほどの大きさだったために皆のアイドルとなったが抱っこするには余りある大きさのポチは、完全に我が家の家族からは除外されてているような感じになってしまった。私は外でぽつんといるポチが可愛そうでならなかった。出来るならなんとか一緒に家の中に連れてきたいとさえ思った。私がポチのところへ行くととても喜び、あふれんばかりの愛情表現で私にまとわり付くしそんな姿を見ると余計に悲しくなる。そんなポチもある日の朝、一人(1匹)で亡くなっ ていた。悲しくて、可愛そうでたまらなかった記憶がある。そして父と弟が自宅から歩いて直ぐの川にポチを埋めに行くと行ったが、私は行かなかった。しばらくは孤独に死んでいたポチのことを忘れることがなかなかできずに、自分が罪深いことをしたのだろうかとさえ思ったことがある。もっと可愛がっていたら、家の中で一緒にいる事が出来たら、ナナばっかり可愛がる事をしなかったら、などと後悔は後から後から出て来た事も覚えている。そして 私は恭平を可愛がり、ジュディーが恭平の奥さんとなり、さくらが生まれた。父と母はさくらを一番可愛がるのだが、私は恭平を一番可愛がるという自信があった。それはポチの事を経験したからだった。そして、一人ぽっちで誰にも見られることなく亡くなったポチの事を思う時の後悔を経験したためか、できる限りの事を恭平にしたいと思った。ポチが死んだあの時の自分を責める気持ちは二度と経験したくない。父が発病をし、病状を知らされたときも、ポチと同じ思いはしたくなかった。後悔と、懺悔。これはできる限り少ない方がいい。この思いは後々まで尾を引く。かといって犬を人間並みに扱うべきだと言う事が言いたいのではなく、あの時、ああしていたら、今はこうだった、そういう自分の気持ちが重要だと思う。それに「あの時ああしていたら、あの時こうしていれば」といういう経験は誰にでもあると思うし、それが前に向かって目標に進んでいる場合なら、「今度こそは」とバネになることもあるかもしれない。しかし、二度とチャンスの来ないことに対してはどうだろうか?やはり力の限りすることしかないのかもしれない。それに一度失敗をすると、次には同じ失敗を繰り返さないようにと気をつけるようになる。果たして自分は父と恭平が病に倒れた時に、そのポチの経験が活かされたのだろうか? 今、自分は後悔も懺悔もしないほどにできる限りの事をしたのだろうか? 走り回るジュディーとさくら、そして父と恭平の元気な姿と一緒にこの日はこんな事を考えていた。
 

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