癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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  12月18日以降、父の衰弱は進んでいるようだった。治療の効果は現れず肝機能の数値は少しずつ悪化していく。体も大分だるい様子。今までの日課で父のおなかを擦る事は当たり前だったが、それは痛みが軽くなるとか、胃の内容物を少しでも下に下げる事が出来るという事でしていたことだった。しかし、今は体がだるくて仕方が無いためにそのだるさを軽減させるためにさすって欲しいと言う。寝返りを打つ事が困難であったし、しかし同じ姿勢でずっと寝ているとそれもつらいので、体全体を擦るだけではなく足を曲げて枕をかったり外したり、背中にも枕をかったりはずしたり、そんな事を1日中繰り返していた。痛みも治まるかと思えば激しく出るようだ。話す声には力が無く、手振りで私にして欲しい事を合図する。必死だった。少しでも楽になるように、少しでも肝機能が改善されるように、とにかく必死だった。
しかし、肝機能は改善される事は無かった。そして12月22日。眠っている事が多かったが見ると父は泡をふいて苦しみ出した。タンが喉にからんで息が出来なかったためだ。慌てて看護士さんに吸入をしてもらった。吸入はとても辛いのでその勢いで嘔吐した。呼吸は楽になったようでそれは良かったと思うが、吸入がこんなに辛いとは知らなくて辛い父を見たことは私にはショックだった。父ももう二度と吸入はやらないぞ、という意志が見える。たんがからみそうになっても自分で喉につまらないように、口元まで吐き出す。父の強さを見た気がした。しかし、先生は通過障害を起こしかねないので鼻からカテーテルを通し胃の内容物を体外に出す事を検討しようと言った。この日から水分は禁止。
そして夢なのか幻覚なのか判らないが「恭平、恭平」と2回言ったらしい。母が父が確かに言ったというので私は父に確認をした。
私「恭平がいるの?」
父「いる」
私「恭平は元気なの?」
父「ああ」。
夢の中の恭平は元気でいる。しかし、不安もよぎる。父は恭平よりジュディーやさくらを可愛がっていたのに何故「恭平」なのか?

12月23日。私は今まで頑張ってきたが、この日大きな失敗をした。父の部屋に入り父の顔を見るなり泣いてしまった。癌との闘いが始まって以来絶対に父に涙を見せなかった。父と一緒に泣いた事はあったが私が父の顔を見て泣くことは絶対にしないと心に誓っていた。しかし、泣いてしまった。昨日の吸入をしたときの父の辛い表情を思い出し泣いてしまった。父も私の涙を見て泣いた。。。。。。なんて事をしてしまったのだろう。。。。
その涙が治まった後、父は安定している。眠ってばかりいるが痛みも無いし、タンが絡む事も無い。しかし体のだるさとしんどさは変わらない。同じように父の体を擦ったり、体とベッドの間に枕をかい父の体が楽な状態を保つようにする。水分は口を湿らせるか、軽くうがいをすることを薦めるが父は聞かない。「いいんだ!!!よこせ!!!」と怒る。看護士さんも困惑している。
嘔吐をすることはとても心配だったので父に説得をしてみた。「鼻からカテーテルを通すのは大変だけど、胃に溜まって嘔吐するよりは良いから一度やってみよう。あまりに辛ければ止めれば良いから」と。父は「やってみる」と言った。
看護士さんたちは私と父が会話をした事を疑っていたようだ。父に話を出来るほどの体力が残っていないのが通常なのだろう。
12月24日。安定している。先生も何度も部屋に見に来てくれるが話は殆ど出来ない。しかし身振り手振りで自分の要求を訴える。私はその父の身振りを見ると何を訴えるのかが判るのだが、母や看護士さんには理解できない様子。ふとんが重く感じるようになったらしく、昨日まで体をさすり枕を背中にかうだけでは足りず、布団を外したりかけたりと、繰り返し身振りで要求する。主治医に「今のお父様とお話が出来るのは娘さんだけです」と言われた。嬉しい半分しかし、今までは父が会話をしたり、手や足を動かす事が出来るのは普通の事だと思っていたのに、出来る事は不思議な事だと知ったのはショックでもあった
 

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