癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

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12月25日。入院の翌日、早速病院へ。父は以外に元気であった。座薬を使用し、痛みはほとんど取れていて、食事も取れるという。先生には感謝した。  父は「主治医が3人ついたらしい」と言う。不安になったのかと思えば、案外それが嬉しい様子だ。自分は偉い人、と錯覚している人物なので、3人も主治医がつくなら自分を治してくれると考えたみたいだ。が、翌日主治医がもう一人増え4人になったと聞いたときにはさすがに不安になったらしい。
そして「今の時点では手に負えないほどひどい胃潰瘍、ということにするので話を合わせておいて下さい」主治医から言われた。  
 この日の午後から検査開始。検査の後、病室へ再度行くと、げっそりしている。聞くと胃カメラが大変だったらしく「貧血を起こし看護師さんに部屋まで連れて来てもらった」と言う。余程辛い検査だったのだろう。しかし「病室から検査室まではかなり距離があり、歩いて検査室へ行く途中でフラフラになった。まだこれからも検査があるが、そこまでいける自信が無い」と付け加えた。看護師さんに頼んだらいいのに、と思うが簡単に頼み事をする性格ではないのを私は知っていたし、今父に対し出来ることは、私が車椅子で検査室まで父を連れて行くことだ、いやそれぐらいなら私も手伝える。そして検査部屋まで父を送り迎えする事にした。

 12月26日。この日、検査はお休み。昨日大変な検査だったので休憩して下さい、ということらしい。私も少し安心できた。辛い姿を見るのは私自身にも負担になるからだ。検査が無い代わりに売店へ行ったり、なにげない会話をしたりして時間をつぶした。あまり病気のことを考えて欲しくなかったし、そうでなくても病室で一人孤独になったときには色々考えるに違いない。
 病人は孤独だ。病室では、呼べば答える家族もいない。話し相手も無く、用があれば冷たいブザーを押す。そして遠慮がちにお願い事をする。第一、痛みを代わってもらえる訳でもないし、辛い、悲しい、苦しい等、本当の気持ちは誰にも判らないのかも知れない。どこまで行っても孤独だと思った。それなのに、無責任に「頑張って」と言い放つ。それも孤独を増徴させることになるのかも知れない。「よく頑張った」「一緒に頑張ろう」とか「辛いのは判るよ」と同情する言葉をかける方が病人を励ますことになるのか?そう考えてみたりする。明日はもう少し父と一緒にいる時間を長くすることにしよう。

 12月27日。予定通り午前中に検査へ父を連れて行くために病室に行くと「検査が早くなった」と置手紙が布団の上にあった。慌てて父を探しに行くと、私を見てほっとしたような表情を見せる。検査が終わり売店へ。何気ない会話を交わしながら車椅子を押す。
 今までは仕事の話等で父とは衝突をしてきたことや、眉間にしわを寄せ、仕事が第一と気を張ってきた姿などを改めて思い出していた。その父が私の何気ない会話に笑顔で答える。穏やかでとてもゆっくり時間が過ぎるのを感じ、この時間が永遠であることを願った。そして車椅子から感じる父の重さに、これ以上やせ細ることなく筋肉質で頼りになる父の姿も永遠であれと願った。そしてその車椅子の重みが「この人が私を育ててくれた」と今までに無い実感となって伝わってきた。

  午後からは、鼻から管を通しバリウムを入れてレントゲンを撮った。今年最後の検査になるらしい。そして哀れな父の姿を目にするのもこの日が今年で最後だ。しかし検査から帰ってきた父の姿は目に余るものがあった。「俺は二度とこの検査はやらないからな」と看護師さんに捨て台詞を残し、この後数時間うなずく以外言葉を発することは無かった。この検査は辛いと聞いたことがあったが、私なら死んでもやらない、と感じたのを思い出す。あ、父は頑張っている。やはり、「よく頑張ったね」と声をかけることにしよう。
 この日、夕方にSM主治医を見つけ検査の結果を簡単に聞くことが出来た。予想以上に進行している。十二指腸が閉塞しそうで主治医も「これで食事が摂れるのは気合だけですね」と言う。そして告知をしないわけにはいかないと言われた。手術は出来ないため、化学療法による治療をすれば当然のように髪の毛は抜け、吐き気はし、なのに「あなたは胃潰瘍です」と言えば、主治医は疑いの目を向けられ、それが広がり家族をも信頼しなくなる。「潰瘍が大きいがその中に一部癌細胞が見つかった。そのため抗がん剤治療をする。潰瘍が大きすぎて手術は出来ないと説明しましょう」とアイデアを提案された。承諾をするのが一番妥当な判断だと思った。私達を信頼しなくなれば当然余計なことに神経を使うことになり、皆で頑張ろうという姿勢を保つことが出来ない。その上医師を疑ったら治療に支障をきたす。私自身も嘘を突き通す自信は無い。もし嘘をつき通すのなら、母にも黙っておくことが賢明ではないかと思うが、正直者の?私はきっとそれも出来ないだろう。それより、癌である事を告知し、医師、看護師、そして家族が一丸となって父の治療に立ち向かうという姿勢を見せたかった。安心して治療を受けよう、先生を信頼し任せよう、と思って欲しかった。
 
 お正月中は検査が無いため自宅で過ごすことになっていて、私だけが「食べ物をもどしたらすぐに来てください」と注意を受け翌日自宅へ帰った。

 入院生活は不自由もあるが至れり尽くせりの部分もある。何かあれば看護師さんが世話をしてくれる。その道のプロなので私達家族が判断のつかないことをきちんと対応してくれるし、痛いところに手が届く。もし私ならおどおどしてしまうだろう事もテキパキとこなす。それを思うと自宅に父が戻っても、私としては不安だった。それに、自分の言葉に異様に神経質になっていた。とにかくお正月が明けるまで黙っていたかったけれど、自分自身の精神状態も限界が近づいているような緊迫した状態だった。そこに追い討ちをかけるように「俺は癌だ」と突然言い出した。「そうだよ」なんて言えるだろうか?いや、「そんなことは無いよ。胃潰瘍だよ」と言って欲しいのではないか?そう勝手に判断をしたが「まさか?癌のわけ無いじゃない」と答えるのが精一杯だった。父もそれ以上追求する事はしない。

 お正月、家族4人で迎えることが出来た。最初の総合病院で言われた「今年のお正月が最後」という言葉は私をなぜか苦しめる。人間である限り誰でも最期は訪れる。しかし、他人に、それがたとえ医師であっても、父の未来を決定されるのはなんだか不本意でもあった。しかし衰弱する父を見るとその言葉が本当になるのかと恐怖に襲われる。医大病院のSM主治医が「今年が最後なんて言わずに頑張りましょう」と言ってくれた言葉は私を大きく救ったが、その言葉を打ち消すほど「最期」とは私に打撃を与えた言葉だった。

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