癌・ギランバレー☆闘病記

がんと闘う父の記録

HOME 闘病記 がんと闘う父の記録 再入院 1

容態が少し悪くなってきたかなと疑い始めた6月、3匹の愛犬のうちの一番上の恭平の調子も悪く、前立腺癌の疑いがあると診断された。でも信じることが難しかった。どちらにしろ、癌であるなら抗がん剤治療になると言われたせいか、お腹を切って細胞検査を薦められたが、どうしても気が向かない。一体どうしてこんなことになってしまったのだろう?恭平まで癌になるなんて、一体どうなんってしまったのだろう?と、自分の置かれた環境が理解できない日が続いた。もちろん自分の気持ちも整理が付かない。それに今の状態では恭平に付きっ切りというわけにはいかない。どこかで恭平が癌であると認める事が出来ないままでいる。
 父が癌を宣告されたときの自分の状況を思い出して涙した。延命という言葉は父にも使われた。獣医師が延命治療しか無いと言ったとき、「延命」という言葉の意味を自分は理解していないとも思った。残された時間をどのように過ごすのか、という事を考えるより、あとどれだけ生きられるのか、という事に視点がいってしまう。一体、延命とはどんな意味なのだろう。
 細胞検査をするにも出血が伴う。しかし細胞検査をしないと癌の型が特定できずどの抗がん剤を使うかを決められない。しかし、父が入院をするまでは、細胞検査をするのを待つことにした。その代わり、健康食品を恭平に使ってみる事にした。その結果、恭平の恐ろしいほど大きい腫瘍が2週間でかなり小さくなっていた。獣医師もこれなら、細胞検査は止めて様子を見た方が良いと判断した。 父も恭平と同じ健康食品を試した。健康食品が癌に効果があるか無いかそれは判らない。しかし、治療が始まるまでの間、治療をしないと不安になるし、その不安を取り除く役目をしてもらうための健康食品だった。
 問題は父が入院に対しては神経質で「入退院を繰り返すという事は先があまり長くは無い」という考えを持っていることだった。私は父の考えを変えるため「検査をするために入院が必要」と父をなだめた。父も、急患でKK医師の診察を受けたときに、1~2週間で退院できる、ただの検査入院」と言われたという。そんな事実は無いのだが、そう思っていたほうがいい。入院して検査をしたら先生から説明があるし、今から不安ながらに入院をするより「色々調べたがここが良くないので治療が必要」と言われたほうが納得がいくように思えた。事実はその通りに進んだ。父は否定的な考えを捨て、検査も治療も頑張ると言った。その父が頑張ろうとする姿に、私も迷わずついていくことができる。もし今、父が治療や入院に対し拒否をするならそれでも私は父の考えに迷わずついていくだろう。父が進みたい方向に私が迷いを感じてもそれを跳ね除け、父の考える方向へついていくという自信がある。それに父にその私の考えを理解してもらうだけでも父は心強いに違いない。もし、どうしても賛成できないということになったら、その時にじっくり父と話し合えばいい。しかし、今私達は、同じ方向へ、同じ希望を、同じ時間を歩いている。
 そして、急患で診察を受けた一週間後、ベッドが空いたと連絡があった。父は、この時すでに歩くことはしんどいほど体力は落ちている。車椅子で父を病室へ連れて行く。私は、「よかったね。早く入院できて。これでしっかり検査してもらって、しっかり直す事が出来るよ」と言い帰ろうとした。父は「明日はここに来なくていいからな。検査しかする事が無いし、必要なものも無いからな」と、言い残した。しかし私は行かないはずは無い。

 意に反して容態はとてもよいとは言えず、入院して直ぐに血と一緒に食べたものを全て吐いた。2日程連続で吐いたし食事もしていないため、やつれていく。点滴をして、栄養補給をするが、血管が細くなっていて何度も失敗し、その上点滴が漏れる。そのため父は点滴を嫌がった。何度も針をさされ、傷だらけとなった父の腕を見ると私は言葉も無く、父の腕をさするしかなかった。父も「点滴ぐらい一回でやれ」と看護師さんに怒る。怒る気力があるうちは大丈夫と、茨城に住む父の弟がいった言葉を思い出す。「まだ父は気丈でいられる」と言う事だろう。
検査の結果が出て、医師からの説明のために家族が呼ばれた。説明の内容は「胃も十二指腸もガンは大きくなっていない。心配される十二指腸の閉塞も心配無い。腹水も溜まっていない。ただ転移した肝臓のガンが1つ大きくなっている。脊椎の近くであるため、神経を圧迫して痛みが出た」と、説明された。そして今までの抗がん剤は効果が薄れたので違う抗がん剤を使う。そしてこの抗がん剤は外来でも出来る。退院した後不安な事があったら電話してください。いつでも対処します」といってくれた。嬉しかった。これからの治療と、その後のフォローもしてくれたのだから、安心してこの先生に任せようと思った。
 しかし、問題はこの日まで私以外は肝臓にガンが転移しているとは知らなかったということである。心配をしながら主治医の説明を聞いていると、父が「何時から肝臓にガンがあったのか?」とKK医師に聞いた。「最初からです」とKK主治医は答えた。しかし、この会話を私は見守るしかなかったし、今の時点で隠し通すより、知って受け止める方が納得がいくのではないだろうかという気がしていたが、以外にも父は素直に事実を受け入れた。父は「おかしいと思った。腰が痛いなんて言うのは何かがあると思っていた」と言ったのである。そして「胃の方が悪くなっていないのならそれでいい。これからは肝臓に対し出来るだけ効果の上がる抗がん剤で適切な治療をして欲しい」と付け加えた。私は父を支えよう。こんなに色々な事がありながらも、懸命に戦おうとしている。負けないと頑張っている。しかし、KK医師は「リンパ節に転移」と父には伝えなかった。そして余命の告知も無かった。その代わり「新しい抗がん剤の効果に期待をしましょう」とだけ言った。
 父の変化にも驚いた。以前の父なら私達に「思ったとおりだ。肝臓に癌があるんだ」とこぶしを振り上げ怒りをあらわにしたと思う。しかし、そういった行動は一切なく自分の体の異常は自分で感じ、診察の結果に対しても自分で納得をし「受け入れる」という事ができるようになっていた。
 入院前日、発熱があったのだが、この発熱は入院後も続いていた。しかし、入院3日目、熱は下がり、便秘も解消される兆し。
  予定通り、7月23日にタキソテール(抗がん剤)が点滴される。しかし、父は食べたものを血と一緒に吐き、その後、発熱が続いていた。癌からの発熱だろうかと不安になり、抗がん剤が出来ない現状に心配をするしかなかった。毎日がつらく、夜もあまり眠れない。やっと、熱が下がり、予定通り抗がん剤を点滴。副作用は当たり前のように出た。しかし、嘔吐は半日程が一番ひどかったように思う。その後は安定してきている。
  しかし、発熱の方は一向に良くならず、心配と不安は続いていた。髪も当たり前のように抜け始めた。髪が抜けると知っていても、抜けた髪を見ると、やはり気持ちは落ち込む。そんな父の髪をシャンプーした。生まれて初めて父の髪を洗った。自分が父の世話をするなんて今までは想像すらした事がなかった。しかし、こうして世話が出来ることを嬉しいと感じながら父の髪を洗った。

index: トップページに戻る  ◊  前ページ  ◊  次のページ