癌・ギランバレー☆闘病記

二つの難病を抱えた夫の闘病日記

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9月1日 (月) 晴れ
夜N来訪。我が家に入るとの最終結論。内心ホットする反面不安も募る。Yと上手くやってくれるか、Yに辛い思いをさせないだろうか?不安の方が大きい。Yを助けて仲良くやって行って欲しい。父の願いだ守ってくれ。
9月3日 (水) 晴れ
タキソール点滴日。先週のCTの結果、転移は進行、腹水、胸水有りとの事。眠剤をもらう事にする。その後泌尿器科受診。
ステントの入れ替えのつもりでいたが、メリット、デメリットの説明をされる。今入っているステントを抜いても又入るとは限らない。入らなかった場合は背中に穴をあけてチューブを入れるとの説明。そうなると勿論入院である。
主治医と相談するとの事だった。こちらも入院したく無い為そのまま帰宅。
9月4日 (木) 晴れ
体調悪し。点滴を受けた日はすっきりしたように思うが次の日は辛くて駄目だ。どんどん体力が落ちてきて先が見えて来た気がする。
午前中Tさんの奥さんとH子ちゃん来訪。大変心配をかけていたNの事を報告する為に来てもらう。Tさんは居なくなってしまったが上から見ていてくれるはずである。奥さんにもきちんと報告しなければ怒られてしまう。楽しい4時間があっという間にすぎてしまった。
9月5日 (金) 晴れ
ヘルパーさん、軽くストレッチ、マッサージのみにしてもらう。夜中に腹の痛みで眠れず。救急車を呼んで病院へ行こうとYの言葉。
迷ったが、夜間の救急外来では良い先生が居るはずも無く止めた。1時頃より4時過ぎまで眠れずに苦しんだ。こんな事なら死んだ方が楽である。
9月6日 (土) 晴れ
痛み止めをもらう為に病院へ行こうと思ったが、病院へ行く気力、体力共に無し。そこで薬だけもらいにYに行ってもらうが出ず、から戻りであった。電話をして本人が行けなくともOKとの事で行ったのに何たる不手際か。患者の事を第一に考えて欲しい。
またしても我慢の夜が来るのかと思うと辛い。おそらく体の中いっぱいに癌が暴れまわっているのだろう。
9月8日 (月) 晴れ
N、家庭裁判所へ氏の変更願い提出。後は皆仲良くやって行ってもらいたい。俺にはそれくらいしか言える事が無い。
あとは上から皆の幸せを見守っているよ。みんな仲良く幸せにやって行って欲しい。
9月9日 (火) 晴れ
まあまあの体調に戻る。だが、また明日点滴をすると元に戻ってしまうのだろう。辛い日々の繰り返しである。トイレはこの所オムツ専門になってしまっている。ちょっとしたはずみに出てしまう。Yの優しい言葉やしぐさが余計に辛い。
泣きたい心境、涙が出てしまう。本当に大きな子供になってしまった。
9月10日 (水) 晴れ
4クール2回目の点滴。栄養剤をプラスしてもらう。泌尿器科ではステントの入れ替えを体調の良い日にしてもらうよう今日の予定を延ばしてもらう。もう、これ以上痛い思いも辛い思いもしたくない心境だ。痛み止めの座薬も追加してもらう。
強い薬だとショック死する可能性があると言われたが、もうそれでもいいよ。早く楽になりたい。
9月11日 (木) 晴れ
やはり体調悪し。夜2回オムツを替えてもらう。腹が痛く、痛み止めの座薬を使い、眠剤を飲んで眠るが3時頃目が覚めてその後眠れず、我慢の時間を過ごす。昼もベッドの上に居るが眠れず、体の置き所無しという感じだ。
9月12日 (金) 晴れ
夕やけ小焼けで日がくれて、山のお寺の鐘がなる。
俺もいよいよ覚悟を決めないと・・・・・

*これが最後の日記になりました。*

9月25日最後の入院。長男の挙式も11月15日に決定。その日の朝を笑顔で迎えたい、その日まで頑張るからと約束しました。

しかし、残念な事にその願いも叶う事無く、11月7日午後3時22分永眠。

平成12年1月、ギランバレー症候群を発症以来、3年10ヶ月に及ぶ辛い闘病生活に幕が下りました。

 

☆最後に見た夢の話
ヨーロッパへの単独一人旅。その旅の様子がテレビ放映される事になり、テレビ局関係者が尋ねて来て、今インタビューを受けていると言う。
主人はニコニコしたり、困惑そうな顔をしたり、一晩中語り続けていました。
翌朝、意識のはっきりした時を見計らって聞いた話です。「今回は一人で行って来たが、今度は一緒に連れて行ってやるよ。」と約束してくれたのですが・・・叶う事はありませんでした。
☆最後に託された頼み事
「俺の葬儀には、夕やけ小焼けを流し続けてくれ。」「遺影の写真は病気前のものにしてくれ。」
☆最後に交わした約束
「Yが楽しく笑って暮らせる様に見守っているよ。そして辛そうだったら上に引き上げてやるよ。」
☆最期に交わした言葉
「今度の安定剤で多分眠れるだろうから、横になって休んで良いよ。お休み、ありがとう。」
モルヒネの副作用で意識が混濁している中、一日中一人話続けている事もありましたが、私の問いかけに我に返る時間も多く、普通の夫婦の会話が出来ていました。殆んど毎日、病院に泊り込んでいましたので沢山の話をする事が出来、思い出も沢山残してくれました。入院後、毎日のように痛められましたが、最後の一日。
今までになく、多くの痛み止めを要求。しかし、改善が見られず、体の置き所がないと言って上体を10分ほど私の身体に
寄りかかっていましたが、それも限界になり再び横になる。痛み止めをこれ以上使用出来ないという事で安定剤の点滴をお願いする。
深夜2時。☆最期に交わした言葉。を最後に昏睡状態に。痛みから解放されて13時間20分後に天に召されました。
頑張り抜いた主人の最期に神様が与えて下さった安らかな別れの時でした。
☆友人達との不思議な最後
日記に登場する「のらくろ」の友人の一人、徳さんに前日に入れた主人の様態を知らせる私からのメール。
そのメールを徳さんは見る事はありませんでした。主人が昏睡状態に陥っていた時に徳さんから入った私宛のメール。
勿論、そのメールを私が見る筈もありませんでした。にも拘らず、のらくろの皆さんが主人に会いに来てくれました。
後で知った事ですが、「3時に皆で伸ちゃんに会いに行くから」というメールでした。
残念ながら友人達が病室に見えた時は、主人が息を引き取った直後でした。しかし、その長年の付き合いの友人達と一緒に自宅へ戻って来る事が出来ましたことを、主人は喜び感謝していたに違いありません。


このような場を与えて下さったsakuraさんに出会えた事。
主人の名前が一つずつ消えてゆく中で、主人の生きて来た証を何かの形で残したいと思っていた矢先にご自分のHPに載せたいとお声をかけて頂き、このような素晴らしい日記に仕上げて下さった事に改めて感謝申し上げます。
ありがとうございました。
そして長い闘病生活を共に戦って来たお仲間、励まし暖かく見守って下さった友人達、病院のスタッフの皆様にこの場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。
今現在闘病中の皆様、そのご家族の皆様が明るい希望に向かって頑張れる事をお祈り致します。最後に主人の常々言っていた言葉
「焦らず、諦めず、意地やかず。」を送ります。

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